Gigi Masin INTERVIEW

COVERCHORD FEATURE

Gigi Masin INTERVIEW

ENGLISH

アンビエント・ミュージックのパイオニア的存在であるジジ・マシン。名作の一つである『Wind』が発売されプロデューサーとしての地位を認められるまで、イタリア人作曲家としてのキャリアは長い間知られていなかった。 彼の巧妙な音楽作品が世界に知られるまでにかかった期間はおよそ30年、メランコリックでありながらも優しく柔らかい革新的な作品はようやくスポットライトを浴びたのである。 今回、ツアーで来日中のマシンにこれまでのキャリア、そしてこれからのことについて話を聞いた。
1986年、限られた資金と商業的なディストリビューションへのアクセスも無く、ジジ・マシンは1枚目ソロアルバムとなる『Wind』をセルフリリース。このレコードは個人的なプロジェクトで、友人へのギフトであり、彼の故郷であるイタリア・ヴェニスの小さなコンサート場で手売りされていた。その30年間、このレコードは世界の他の人にほぼ知られることはなく、狭い世界の中に閉じ込められていた。しかしゆっくりと、噂は広がる。時間の経過と共に、レコード・ディガーに知れ渡り、初期のアンビエント・ミュージックの熱心なファンは『Wind』を完全なる無名からカルト・ステータスへと押し上げた。オンラインのレコード市場では、このレアなLPが定期的に500USドル以上で売買されており、結果的にマシンはアルバムの再発を余儀無くされる、オリジナル作品には手が届かない若者がコピーを購入できる為にだ。待望の『Wind』再発の直前にアムステルダムのレコード・レーベル〈Music From Memory〉からマシンの30年に渡る作品の回顧録がリリースされた。脚光を浴びずに数十年が経つが、世界は遂にジジ・マシンのこの美しく感情的な作品に導かれることとなった。男の再臨は懐かしさに縛られること無く、むしろ複数のコラボレーション・アルバムや新しいソロ・プロジェクトが制作され、彼のキャリアの中で最も多産な時期の一つとなった。 

人生ずっとヴェニスに住んでいますね。あなたのサウンドやキャリアの中でこの街はどのぐらい重要ですか?

私は古い街に生まれました。生まれてずっとヴェニスやその近郊に住んでいます。アーティストであれば街はとても重要なはずです。例えばもしあなたが画家や詩人であれば、ここは世界で最も美しい場所です。この街の雰囲気には何か特別なものを感じます。歴史が溢れていますが喜びも満ちています。海に近いし、ビーチにも近い。車なんてなくたって、子供が育つには楽しい場所です。素晴らしい遊び場や、学べる場所がたくさんあります。本当にロマンチックな場所ですし、ここを離れることはできないでしょう。私の人生の中で他の街に引っ越そうと考えたこともありました。30年前日本の神戸に移住する計画がありました。当時のガールフレンドがイタリアで日本語の先生をしていたからです。でも最終的に我々は行きませんでした。ヴェニスが私にとっての居場所なのです。 

最初に音楽の存在を発見した頃、どんな音楽を聴いていましたか?

最初は2種類の音楽を聴いていました。クラシック・ミュージックを沢山くれる叔父さんがいたので、私の最初の音楽体験はヴィヴァルディ、ベートーベン、バッハです。ですが、小さい頃はラジオもよく聴いていました。イタリアではローリング・ストーンズやビーチ・ボーイズなどのバンドが聴ける公共のラジオ局が2、3局ありました。なかなか良かったですが面白くはありませんでした。それから私は東ヨーロッパのラジオ局を見つけました。クラシック・ミュージックとコンテンポラリー・ミュージックを多くプレイしていました。なんとも言えない奇妙なものが沢山聴けました。英語で紹介されるラジオ局にはラジオ・ルクセンバーグがあり、素晴らしいジャズ、ロック、ポップ・ミュージックを私に多く紹介してくれました。それからレコードを買い始めましたが、イタリアでは容易なことではありませんでした。輸入音楽を扱っているようなお店は数店舗しかなく、見つける為には電車や車に乗ってレコードを探しにいきました。 

かなり若い頃からレコードを集めていたのですか?

はい。夢はラジオDJになることでした。18歳の時深夜番組のホストとして公営ラジオ局で働き始めました。毎晩3、4時間プレイしましたが、深夜放送だった為、自由に自分の好きな曲をかけられました。Miles DavisやJohn MartinそしてNeil Diamondまでかけ放題でした。これが私の夢の職業で一生やり遂げると思っていました。 

DJになったことがきっかけで音楽制作を始めたのですか、それとも常に同時にやっていたのですか?

10年間ぐらいラジオ局で仕事した後法律が変わり、ほとんどの公営局が閉鎖されました。他の仕事を探さなくてはいけなくなり音楽制作を始めたのです。私にはシアター界で働いている俳優や作家の友人が何人かいて、彼らは私が沢山の奇妙なレコードを所有していることを知っていて、作品制作の為にそれを使わせてくれと聞いてきたのです。私はそのままレコードをかけたりせず、逆回しでプレイしたり、回転数を落としてかけたりしました。変なノイズ音をレコードの上に被せテープに録音したりしました。 

それがあなたの最初の音楽制作の経験ですね。その頃から楽器を演奏したりしていたのですか?

いいえ、ギターは常に演奏していましたが、友人と嗜む程度だと思っていました。演劇やラジオ界で仕事できたことは素晴らしかった、自分が何らかの形でコンテンポラリー・ミュージックに関わり、何かができるということを感じられたので。そしてその頃のガールフレンドがシンセサイザーをくれました。POLY-800でした。プレイし始めたら、そのシンプルなサウンドに心を奪われました。そこまで音楽的でもなく、楽器的でもない。ただのシンプルなフレーズやシンプルなシークエンス、そこに例えば少しのピアノやトランペット、それで十分でした。引き算の仕事でした。 

当時、他のアーティストを聴いて特定のサウンドを追い求めていましたか?

『Wind』をやった時は、自分解釈のジャズを制作していると思っていました。しかし友達にトラックをプレイしたら、一人が「これは多分アンビエントだね。」と言いました。でも私はアンビエント・ミュージックなんて知りませんでした。Brian Enoが誰かも知らなかったのです。Roxy Music!のキーボード奏者でしたが、アンビエント・シーンについて私は何も知りませんでした。Harold Buddも知りませんでした。私はただ自分に正直なアルバムを作ったら、それが実はジャズよりアンビエントになってしまったのです。(笑) 

『Wind』は時には非常にメランコリックで他の点では希望に満ちています。このアルバムの背後にあるインスピレーションは何でしたか?そしてどのように制作しましたか?

『Wind』のトラック選びですが、沢山のアイディアがあり200本分のテープカセットに録音しました。そしてレコードを制作することを決めた時、私は仲の良い友人に頼んで聴いてもらい、どれを選択するかの決断を助けてもらいました。これはその時私が感じていたそのものです。時に幸せだったり、悲しかったり。それが私という人間なのです。シンプルなトラックですが、晴れた日にかけたい曲もあれば、雨の日にかけたい曲もあります。冗談を言って笑うことは大好きですが、同時に深い感情に包まれている時、私はまるで砂漠の牛のように悲しくなります。だからあなたが言う感情のアップダウンを感じるのは正解です。私はそういう男なのです。知っていますか、私が愛についての曲を書こうとすると、大抵悲しい愛の曲になるのですよ。 

あなたは自分でプロデュースし、レコードをリリースしましたね、難しい課題でしたか?

当時のイタリアでは大いなる挑戦でした。著作権がとても難しかったですね、なぜなら私はプロデューサーもマネージャーもエージェントもいませんでしたから。それはかなりのチャレンジでした。 

なぜセルフリリースすることにしたのですか?

私はアルバムが売れると全く考えていなかったからです。一回限りのはずでした。友人への贈り物だったのです。公演をする時に手に取れる何かがあればというアイディアでした。自分の音楽が売れるとは本当に思ってなかったのです。レコードを作るのが理由ではありませんでした。だから何年も時が経ちコレクターがインターネット上で私のレコードを500ドルで販売しているのは不思議でした。だから低価格で再度リリースすることを試みました。なぜならお金がない若者が作品のコピーが欲しいと私に頼みこんできたからです。本当は再リリースはしたくありませんでしたが、このような理由で余儀なくされました。 

オリジナル盤はアートワークも自身で手がけていますね。

はい。私が愛するブラジルの詩人による詩があります。それをどうにか起用したくて。後、メソポタミアのスクリプトに当時大変興味を持っており、どのように書くか勉強していました。『Wind』のカバーはその詩をメソポタミア筆記体で再生させた私の試みです。 

『Wind』後、1989年にCharles Haywardと共にスプリット盤LP [Les Nouvelles Musiques De Chambre Volume 2]をリリース、続いて1991年に『The Wind Collector』をリリースしました。その後10年間は何もリリースしない時期がありましたが、その間もまだ音楽制作は続けていたのですか?

『The Wind Collector』の後、私は音楽制作をやめました。演劇の仕事に戻りました。詩人や作家達と何年もかけてイタリア周辺を旅しました。彼らは美術館や古い教会など素敵な場所で朗読会をやりました。そこで私はターンテーブルで音楽をかけたりピアノを演奏したりしました。それが当時の私の音楽生活でした。新しい音楽を制作することはやめ、レコーディングすることもやめました。劇のためにコメディを書いていました。いくつかやりましたが、音楽は書きませんでした。 

2000年初期にBjork含めアーティストがあなたの作品をサンプルしました。そして同時期に10年以上も経過した後、初めての音楽をあなたはリリースしました。これらの出来事には何か繋がりがありますか?

ドイツのトリオグループ、To Rococo Rotが私の89年に〈Sub Rosa〉からリリースした「Clouds」をサンプルした曲をBjorkが聴きました。そして、Bjorkも私の音楽をサンプリングしました、そして同時期に東京のDJであるNujabesもサンプルし、そうやってどんどん広がっていったようです。そのことが多分私に新しいことやるようにと導いてくれたのかもしれません。2枚組のCDをイタリアのレーベルからリリースしましたが、あまり良い結果にはなりませんでした。それから10年程前にヴェニスで洪水があり、私が所持していたキーボード、ギター、レコードそしてテープなど、ほとんど全てを失いました。運が良かったのは、しばらくして新しいアルバムを制作してくれと友人に依頼されたことが私を再び音楽の道へと引き戻してくれたことです。それがなければ私は全てをやめていたでしょう。代わりに私はコンピューターを買い、そこで音楽を制作し始めました。新たな始まりでした。 

あなたの回顧的アルバム『Talk to the Sea』が2014年にアムステルダムは〈Redlight Records〉の別レーベル、〈Music From Memory〉からリリースされました。どのような関係経緯だったのですか?

私の古い作品をリリースしたいという人達からのリクエストが幾つかありました。私の主な条件としてそのやりたい意志のある人達と実際に会いたいということでした。もし話をしてリラックスできるのであれば、そのプロジェクトを信じることができますね。しかしその人達の目を見ることが大事です。なぜなら音楽は私の人生にとって最も大事なものであり、その気持ちはお金では買えません。私にとってそれがやりたいことなのか確かめなくてはいけません、それには人が関わってきます。だから〈Music from Memory〉のJamieとTakoがコレクションをやりたいと頼んできた時、最初に私はアムステムダムに招かれ彼らと時間を過ごしました。そしてプロジェクト内容を理解し彼らがどのような人なのかもわかりました。そして彼らはとても素敵な人達でした。〈Music from Memory〉の彼らの仲間、そして〈Rush Hour〉の人達もよく手助けしてくれました。彼らは素晴らしい家族でとても信頼しています。ここでやるのがふさわしいと思いました。私は30年間の音楽を彼らに託しました。 

あなたの最近の作品はコラボレーションに重点を置いていますね、Tempelhofと2枚のアルバム、そしてGaussian Curve名義でJonny NashとYoung Marcoと2枚のアルバムをリリースしました。どのようにしてこのプロジェクトの話が持ち上がったのですか?

もし一緒にできるミュージシャンを見つけた時、それは他から学ぶべきことがあるから常に好きです。それは開かれた道筋を歩くということです。自分はミュージシャンではないと思っています。どちらかというと作曲家で、他のミュージシャンと時を過ごすのが大好きです。私にとってTempelhofはイタリアでは最高のバンドです。あまり注目視されていませんが、Tempelhofのライブは素晴らしい、鳥肌が立ちます。しかし彼らは不運にも私のように海外での機会にあまり恵まれません。ということで少なからず彼らをどうにか海外の観客に届けたい、助けたいと私は決意しました。我々は『Hoshi』(星)と『Tsuki』(月)という日本語のタイトルで2枚のレコードを制作しました。Gaussian Curveは家族のような付き合いをしています。最初にアムステルダムを訪問した時、〈Redlight Records〉と〈Music from Memory〉のTakoからJonny NashとMarco Sterk[Young Marco]と一緒に演奏してみないかというアイディアを持ちかけられました。彼らと初めて会った時は30分しか時間がありませんでしたが、話をしなくても、ただお互いの目を見つめるだけでそれは明らかでした。魔法のようでした。

その後すぐアムステルダムに戻った時、我々は再度時間をかけて会い、何が起こるか様子をみました。たっぷりと時間をかけて、キーボードとレコードがある小さなスタジオ・アパートで我々は過ごし、金曜日、土曜日、日曜日と費やしてGaussian Curveのレコードを仕上げました。我々は相思相愛で、いつも楽しい時間を過ごします。冗談を言ったり、ビールを飲んだり、それから音楽にとりかかります。ミュージシャンと仕事をするには最高の方法です。2枚目のアルバムも同様に3日半かけて仕上げました。今回はアムステルダムのマルコのスタジオでレコーディングしました。ジョニーは見事なギターリストでありトランペット奏者で素晴らしいミュージシャンです。マルコも同様に偉大な技術者です。そして私はキーボードに座り待つだけ、彼らが全てやってくれます。

今回は違うサウンドを試みました。インスピレーションは、昨年オーストラリアでの経験から来ています。シドニー・ハーバーとメルボルンのタウンホールで公演をやりました。メルボルンの公演は信じられないほど素晴らしかったです。最高の空間でしたし、多くの人が叫び、笑顔が溢れ、踊っている人が見られました。演奏しながらジョニーの目を見た時、「一体どうなっているの!?」という顔を彼がしたのを覚えています。素晴らしい経験でした。人々がこの音楽に踊り出し叫び出すのが信じられませんでした。言葉がでませんでした。だからその気持ちをスタジオに持ち込み、2作目のアルバムをレコーディングしました。初めての時と同じ楽器を使用していましたが、新しいレコードはもう少しエネルギーを感じます。人々がこのサウンドで踊れるような気持ちで録音してみました。違う息遣いです。多分最初のアルバムは寒木で少し霧がある秋であるなら、2作目は春から夏にかけての雰囲気です。 

日本来日は今回が初めてということですが、これまでの日本の印象はどうですか。

今まで行った場所の中で最も印象的ですね。嘘ではなく前に来たことがあるような気がしています。この土地を知っているような感じです。散歩するのも容易ですね。もし30年前に日本に来ていたら、私の人生は違っていたであろうと感じています。そう常に考えていたので、今ここにこれてとても幸せです。日本では『Wind』、〈Sub Rosa〉のアルバム、シングル、そして新しいコンピレーションがリリースされているので、今回来日し、感謝の言葉を伝え、ライブ公演をし、そしてこの国を経験できることとなりました。とても光栄です。 

日本ツアーにはピアノ・コンサートと'Balearic State'というライブ・パフォーマンスをやるようですが、この2つの違いは何ですか?

私はピアニストではありませんが、ピアノを演奏するのは大好きです。だからピアノ・セットを演奏する時はループやアンビエント・ノイズやアンビエント・トラックを使い、様々なアイディアをエクスペリメントします。エレクトロニカ・セットの場合、違うアプローチを起用します。さらにダイナミックでシンセ主導のサウンドです。ミニマル・ミュージックとダンスミュージックの間のような試みです。さらにシンセっぽく、さらにダイナミックで、さらにエネルギッシュです。同じ頭から2つの顔が、どちらとも好きなのです。 

音楽以外の興味はなんですか?

難しいですね、家族と仕事と音楽以外にあまり時間が無いですし、でもそれ以外の主に好きな事と言えば、多分歴史です。若い頃は中世時代の歴史の先生になろうと思っていました。後、若い頃は航海するのが好きでした。最近あまりしていないですが、海にでて風を感じたいですね。 

あなたの好きなアルバム3枚は何ですか?

私の人生を変えた音楽は英国とヨーロッパのコンテンポラリー・シーンです。John Martynという英国シンガーがいて、その彼のギターの演奏の仕方や作曲の仕方、歌い方を聴いた時、私にとって人生の転機が訪れました。だから最初にあげる名前はJohn Martynです。70年代の彼の作品は本当に全て名作です。コンテンポラリー・シーンからはPenderecki、ポーランドの作曲家で、私にとって完全なる天才です。彼のレコード全てが信じられないほど素晴らしい。映画『The Shining』を観た人なら誰でもPendereckiを聴いた事がありますよ。後イタリアのミュージシャン、Franco Battiatoも紹介しなくてはいけません。彼の1970代初期のアルバムは素晴らしいです。 

最近はどのような音楽を聴いていますか?最近インスピレーションを受けたような作品はありますか?

正直言ってここ数年音楽に関して私の生き方はまるで洞窟に住む画家のようです。なぜなら私はあまり他の人の音楽を聴く時間がありません。自分の音楽をやる決意をしたので、他からの影響を受けないようにしています。なぜなら音楽を創る事、もしくは詩や絵画を創る事は自分自身の言葉を使い、他に語り掛けます。そうでなければ自宅でそれをやっていればいいでしょう。自分の壁をペイントし、自分の本に書き込めばいい。でも私は他の人に語らなくてはいけないし、他の人に演奏しなくてはいけません。なるべく正直に自分の感情を伝えようとしています。だから最近は他の音楽を聴きすぎないようにしています。例えば、Jonny Nashのレコードを聴いたとすると、私は演奏できなくなります。美しすぎるからです。前向きですし、名作です。彼の道筋の後を追わないことが難しくなります。Marco Sterkがバリのミュージシャンと美しい音楽を作っていたら、その後を簡単に追ってしまうでしょう。もしくはJamieとTakoが中古レコード屋で見つけた全ての素晴らしいレコードとかね。もし自分自身に正直でいたいなら、あなたの音楽の純粋性を感じたいなら、他のサウンドからは少し離れてみなくてはいけない。感謝を忘れず、学びの心を忘れず、他のミュージシャンと経験してみてください、しかし感情や音楽に関してはあなたのマインドにあるものを表現してみてください。これは私にとって今重要です。新しいレコードを制作したいからです。簡単ではありませんが、新しいことをやりたいのです。 

今後はどのような活動予定ですか、来年、それ以降の計画はありますか?

私は本当に恵まれており、2、3年前にステージに戻ってきてから、年間20から25公演で演奏します。魔法のようです。日本の後はGaussian Curveの2作目のアルバム、『The Distance』のリリース・パーティがアムステルダムであります。それからイスタンブール、ウィーン、ベルリン、ロンドン、フランスとヨーロッパをツアーします。これは私にとって素晴らしいことです。音楽を演奏しながら世界中を巡ることは私の夢です。そしてそう、新しいアルバムも制作したいです。今までとは何かが違う、とても個人的で、かなり深みのあることをやりたいので、少し難解で、大きな挑戦です。なぜなら音楽は予想不可能で、次があるかもしれないし、もしくは最後のアルバムになるかもしれないからです。音楽は楽しむものです。毎回ステージに上がる時も、毎回スタジオに入る時も。もし観客や一緒に演奏している他のミュージシャンが幸せであれば、私はそれで十分です。あなたの人生に音楽があるなら、音楽は人生の一部として生きなくてはいけません。職業としてではありません。もちろんプロとしての意識は大切ですが、自分に正直でなくてはいけません、そこに存在していることが大切です。自分の人生と音楽人生が違う人にはなりたくない。同じ男で、これが私の人生です。私は61歳ですが、私と同じ年頃の作曲者やミュージシャンの多くが音楽から離れています。夢を失い、何かをするというアイディアを失っています。私は幸運にも暗闇から抜けることができ、全てに関して感謝しなくてはいけません。なぜならもうこれ以外はないかもしれません。そして私は常に幸せでなくてはいけません。なぜならこれが人生だからです。

PHOTOGRAPHER : Makoto Tanaka
TEXT : Sam Fitzgerald
TRANSLATION : Risa Uzushiri




FEATURED ITEMS